少し遅れを取りましたが、立春ですね
色々とブログに時間をとる機会が無く、少し話題に乗り遅れてしまいましたが、2月3日は節分、厄払いでしたね。かくいう私も今年で24歳。数えで25の本厄男なのですが、勿論厄払いに神社へと行きました。結構こういう儀式的なのは好きなんですよ。その後の飲み会でお酒に呑まれかけましたが、それもまた良し。
というわけで、基本的な事は知っている人も一定数居るでしょうが、今回は節分の話をしていきましょう。
そもそも節分は季節の変わり目ということで、立春だけを指す言葉ではないというのはご存知でしょうか? 立夏、立秋、立冬も立派な節分の仲間たちなのです。今まで無視してきた人たちはそっと慰めてあげて下さい。きっと彼らも許してくれます。
そんな季節の変わり目には邪気が生じると考えられて「なんとかせな!」と文武天皇が何を思ったか豆を投げ始めたのが事の始まりです。主に立春が節分だといわれるのは、冬から春に替わる季節としてみた一年の始まりとして重要視された結果みたいです。
ではどうして節分には豆を投げるのか。そもそも穀物には邪気を払う力があると考えられており、更には日本でよくある魔目(鬼の目)だの魔滅(邪気を滅する)だのという語呂合わせで選ばれているようです。昔の人は語呂合わせ好きなんですよね。探してみると結構な例があありますよ。
とまぁ、結構な文字数の解説(絶対に豆知識とは言わん)を入れた所で、個人的に気になるのが魔目と魔滅の語呂合わせ。これ、豆を邪なものと、浄いものとで真逆の見方をしているのが分るでしょうか? これでは節分にする豆まきという行動をするが正しいのかと思う人が居るかもしれません。何せ魔目の場合は邪なものを家にばらまいて、果ては身体の中に取り込むことになってしまうのですから。
ですがご安心を。ここから私が皆さんの魔滅になりましょう。
(気に入った人は決め台詞としてどうぞ)
そもそも節分の豆を鬼の目とする場合でもなんら問題はないのです。皆さん豆をまく前にどんな事をしているのか考えてみて下さい。
豆まきの豆というのは事前に炒ってあります。言うならば鬼の目を火に晒し、水分を飛ばし、あんなに小さく形を変えてしまうのです。自分の身で考えれば、そんな事をしている奴なんて恐ろしいことこの上ありません。
あまつさえそれを大量に用意し、その目と同じ種族目掛けて投げつけるなんてとても正気の沙汰とは思えないではありませんか。鬼も裸足で逃げ出す鬼畜の所業です。最後には「縁起が良い」とかのたまいながら、むしゃりむしゃりと食べだす始末。私だったら絶対に近寄りたくありません。
というわけで、魔目という解釈でも邪気を払うのに十分な説得力がある事に納得いただけたでしょうか?
人は鬼を遠ざける過程で修羅にもなれるということですね。これで鬼なんてもう怖くはありません。皆さんもお子さんと節分をする時は、笑顔で「君は今から修羅になるのだ」と励ましながら鬼と向き合わせてあげて下さい。
PS
本来は、「豆を炒る」=「魔目を射る」という意味があり、それを体内に取り込むことで邪気を払おうという考えから来ているものです。お子さんには「君は鬼に対抗する武器を手に入れたんだよ」と言ってあげると喜ぶかもしれません。